01
向きを
持たない石
決まった割れ目を持たない石がある。そういう石は、割ると刃になる。
黒曜石は、岩というよりガラスである。ブリタニカ百科事典の記述はそっけない——「黒曜石は、火山から出た粘り気の強い溶岩が急速に冷えてできた天然のガラスとして産する火成岩である」。粘り気が強いと結晶が育つのを妨げられ、「粘性が増すと結晶化が妨げられ、溶岩はガラスとして固まる」。島根半島・宍道湖中海(国引き)ジオパークの解説も同じ成り立ちを書く——「流紋岩質マグマが水中などの特殊な環境で噴出し、斑晶を生じることなく急冷されたことでできると考えられています」。
結晶が育たなかったということは、割れやすい向きも育たなかったということだ。割った面は平らにならず、貝のうちがわのような曲面になる。これを貝殻状断口(かいがらじょうだんこう)という。ジオパークの解説は「割るとするどい破断面を示し(貝殻状断口)」と書き、ブリタニカはそこから結論まで引く——「その貝殻状断口(なめらかな曲面と鋭い縁)のために、もっとも鋭い石器は黒曜石から作られた」。
曲面で剥がれるということは、剥がすたびに縁が新しく生まれるということだ。砥石でとぐのではない。割った時点で、もう刃になっている。ジオパークの解説によれば、「石器時代にはナイフややじり、やりの穂先などに使われていました」。
もうひとつ、黒曜石には変わった性質がある。ブリタニカは「密に詰まった無数のクリスタライト(顕微鏡でしか見えない結晶の芽)があまりに多いので、このガラスは薄い縁をのぞいて光を通さない」と書く。真っ黒に見えるのに、薄く割れたところだけは、向こうが透ける。右の検分台で、剥がれた片の先を見てほしい。
02
向きを
持つ石
反対に、割れる面がはじめから決まっている石がある。そこでは、人にできることが変わる。
花崗岩のような硬い石には、割れやすい向きがある。日本の城の石垣を積むために使われた技法を、奈良文化財研究所の報告はこう定義している——「矢穴技法とは、鉄製の楔である矢を矢穴に挿入し、石の割目を押し開けて石を割る技法である」。
「割る」ではなく「押し開ける」と書いてあるところが、この技法のすべてである。割目は、人が作るものではない。もともと石の中にある。矢(くさび)がするのは、それを開いてやることだけだ。①の黒曜石では打つ場所が形を決めたが、ここでは打つ場所を選べない。石が決めた面に、従うしかない。
では、人に残された余地はどこにあるのか。力の伝え方である。同じ報告の書き出しはこうだ——「慶長期の全国的な築城ラッシュにより日本の城郭石垣は、高石垣化と石垣石の規格化が進行した」。高く積むには、同じ寸法の石が大量に要る。報告の言葉では「石垣石の規格化には、石割技術の進展が不可欠である」。そして徳川幕府が再築した大坂城で、この技術は「最高水準に達した」とされる。
ところが、その道具が残っていない。「石材業が機械化された現代には、近世初期の石割技術および道具は残っていない」。そこで研究チームは、石に残った矢穴のかたちから鉄矢を逆算して復元した。慶長期は佐賀城の石切場(川上石丁場・鍋島家)、元和・寛永期は大坂城の石切場(小豆島岩谷石切場・黒田家)。どちらも採石年代が特定でき、花崗岩系の硬質石材という条件がそろっている。鍛造は小豆島の石工の協力を得て、鉄矢ひとつに約2時間かかった。
復元された2つの矢は、見た目からして違う。慶長期の矢穴は横断面がV字で、矢底が発達していない。これに合う鉄矢は厚さ3.5センチ・幅8.3センチの板状になった。元和・寛永期の矢穴は矢底が発達してコの字形で、鉄矢は厚さ5.0センチ・幅5.0センチの角柱状。幅広で薄い板か、ずんぐりした角柱か。
この2つで、同じ石を割ってみる。用意されたのは約12トンの花崗岩(長さ5.0メートル、幅1.5メートル、厚さ1.2メートル)。表面の風化層を溝状に除去するヤバトリをしてから矢穴列を彫り、玄能(げんのう)で鉄矢を打ち込んでいく。右で、両方の矢を打ってみてほしい。
03
石が動くか、
道具が動くか
①と②は、同じ「石を割る」でありながら、人のしたことが正反対だった。
黒曜石の側から見る。黒曜石は火山の石だから、どこにでもあるわけではない。そして産地ごとに含まれる成分が違うので、出土した石器がどこの山から来たのかを後から言い当てられる。原産地推定という。
国立科学博物館が公開している研究者紹介のなかで、池谷信之(明治大学黒耀石研究センター)は自分の研究の始まりをこう書いている——「1993年に愛鷹山麓の旧石器時代遺跡から出土した黒曜石を原産地推定したところ、神津島産のものが大量に含まれていることがわかり、それ以降、『旧石器時代の海上渡航』が研究の中心になっています」。愛鷹山は静岡県、富士山の南にある。神津島は、伊豆諸島の島である。陸をいくら歩いても着かない場所から、石が来ていた。
明治大学黒耀石研究センターの堤隆は、神津島村教育委員会が後援した講演会の資料にこう書く——「人々はおそらくは伊豆半島沿岸部から大海原に舟をこぎだし、黒曜石を採って、本土へと戻ったとみられます」。採って、戻った。片道ではない。年代について池谷は「神津島産黒曜石は後期旧石器時代初頭(約38,000年前)まで遡ることが明らかとなりましたが、これは人類史上最古の往復航海の証拠であり、国際的にも注目が集まっています」と書いている。堤の資料も「『世界最古の海洋往還例』と言われ、たいへん注目されています」と、言われているという形で紹介する。この部屋も、そこは同じ書き方にしておく。
石は海を渡ったあと、さらに内陸へ入っている。堤が資料に並べた謎のひとつはこうだ——「長野県佐久地域、200㎞も離れた山岳地帯になぜ黒曜石が運ばれたか?」。打てば刃になる石は、その石そのものに価値があった。だから人は、石のあるところまで動いた。
花崗岩の側はどうか。②で読んだ報告は、最初から最後まで道具の話である。石を探しに行った話ではない。現存しない鉄矢を矢穴のかたちから逆算し、鍛造し、同じ一塊の石で比べる。割れる面は石がすでに決めているので、動かせるのは人の手元だけだ。そして手元を変えると、138回が46回になった。
向きを持たない石では、打つ場所を選べるぶん自由が人の側にあり、だからその石自体を手に入れる値打ちが生まれた。向きを持つ石では、割れる面が決まっているぶん、人に残された余地は力の伝え方しかなかった。どちらも、石が先に決めている。人が選べたのは、石のところへ行くか、道具を変えるか、そのどちらかだった。
ただし、肝心のところは分かっていない。堤の資料はこう結んでいる——「いったいどんな舟で、どんな派遣部隊が組まれていたかなど、大きな謎が残されています」。
人が決めたのは、
— 黒曜石の刃も、大坂城の石垣も、石がもともと持っていた割れ方の上に乗っている。
割れ方ではない。
実物をみる
いちばん厚いところで3ミリしかない。中央を縦に走る稜線の両側が、①でさわった貝殻状の曲面である。
この形は、誰かが「こういう形にしよう」と削り出したものではない。黒曜石をこう打てば、こう剥がれる——その性質にそって取り出された形だ。石という材料では、つくるとは石がすでに持っているものを、取り出すことだった。
——同じ「硬くて戻らない」話は「やきもの」の部屋へ、小さな石を並べて絵にする話は「モザイク」の部屋へ、石の面に絵を描いて刷る話は「リトグラフ」の部屋へ続いている。
※「石は足せない」という枠組みと、③の左右の対比は、いずれも本室の見かたであって、出典にその記述があるわけではない。前者はやきもの・金属・漆・木の各室が扱った加工(焼く・溶かす・塗る・接ぐ)との対比として、後者は別々の研究を並べたものとして、本室が立てている。①の黒曜石の成り立ち・クリスタライト・貝殻状断口と鋭さの関係はブリタニカ百科事典「obsidian」、割れ口の表現と石器の用途は国引きジオパークの解説にもとづく。黒曜石は結晶をまったく含まないわけではない(同解説は「少量の斑晶を含むこともあります」と注記する)。②の定義・寸法・実験条件・138回/46回は奈良文化財研究所紀要 2017 の報告にもとづく実測値だが、矢穴の数は慶長期6個・元和寛永期9個で同条件ではない。③の年代・原産地推定・往復航海の位置づけは国立科学博物館が公開する池谷信之の紹介文および堤隆の講演会資料にもとづき、いずれも研究者の見解としてそのまま紹介した。各ギミックの図はいずれも模式表現である。全主張の台帳は museum/SOURCES.md。